このジャンルがマスターに求めるもの
ヒップホップのマスターの成否は、3つのことで決まります。スマートフォンのスピーカーでも808が聞こえるか。リミッターが仕事をした後も、ドラムのパンチが残っているか。ボーカルが耳に痛くならずに、トラックの上に乗っているか。このジャンルでマスタリングチェーンが行うこと(音色の判断、ダイナミクスの判断、ラウドネスの判断)はすべてこの3つのためにあり、全体の流れは、マスタリングのやり方で説明しているほかのどのマスターとも同じ6つのステップです。違うのはリスクのある場所で、ヒップホップでは、そのリスクがスペクトルの最低域と、ドラムの一打ごとの立ち上がりに集中しています。
また、ミックスとマスタリングの境界が普通よりあいまいなジャンルでもあります。同じ人が同じセッションの中で、プロデュースもミックスもすることが多いからです。これは最初にはっきりさせておく価値があります。以下の問題のいくつかは、実はミックスの問題がマスターまで持ち込まれたものです。そもそも直せるかどうかは、どの段階がその問題を受け持つかで決まります。詳しくはミックスとマスタリングの違いで説明しています。
808と小さなスピーカー
808の基音はとても低く、ほとんどの音楽が実際に聴かれているスピーカー(スマートフォン、ノートパソコン、安いイヤホン)では、物理的に再生できません。そうしたスピーカーでベースラインを聞こえるようにしているのは、基音ではなく倍音です。耳は、基音がなくても倍音の列から音の高さを再構成します。少しサチュレーションをかけたベースラインはスマートフォンでも生き残り、純粋なサイン波の808はあっさり消えてしまうのは、そのためです。
マスタリングでベースパートを合成し直すことはできませんが、すでにある倍音成分をどれだけ通すかは決められます。低域にゆるやかに倍音を付加するか、単にその倍音がある中低域をEQで削り取らないようにするだけで、どこで聴いても伝わる曲と、スタジオの外では土台がまるごと聞こえなくなる曲との差になることがよくあります。確認は簡単で、毎回やる価値があります。手持ちのいちばん小さなスピーカーでマスターを再生し、ベースラインの重みではなく音程を聴いてください。どの音を弾いているのか聞き分けられないなら、ミックスの低域はまだ完成していません。そしてそれは、たいていマスタリング以前に、ミックスの問題です。
低域はモノラルに
低域についてのもう一つの判断が、モノラルです。左右に広げた超低域は、ヘッドホンでは大きく感じられますが、チャンネルを合算するシステムでは崩れてしまいます。クラブのシステムや、多くのスマートフォンのスピーカーがそうです。低域をモノラルに保つのが定石なのには理由があり、どのみち耳がその周波数の方向を聞き分けられない以上、耳に聞こえる代償はありません。
しかもこれは、信じるかどうかの問題ではなく、測定できます。ステレオ幅アナライザーで帯域ごとの位相相関を見れば、最低域の2オクターブが実際に左右のチャンネル間で相関しているか、そしてミックスをモノラル化したときに何が消えるかがわかります。モノラル版は、多くのリスナーが実際に聴いているバージョンです。もう一つの問いには、スペクトラムアナライザーの平均スペクトルが答えます。小さなスピーカーが拾えるだけの倍音成分が、基音より上にあるかどうかです。
キックと808は同じ場所を取り合う
これはこのジャンルを象徴する低域の問題で、ほぼ必ずマスタリングより前の段階に原因があります。それでも、マスタリングエンジニアが最初に耳にするのはこれなので、両方の側から理解しておく価値があります。
キックと808は重なり合う帯域を占めていて、互いに1オクターブ以内にあることも多く、しかも808はキックと同じタイミングで鳴らされるので、同じ瞬間に鳴ることがよくあります。それほど低い2つの音が同時に鳴ると、合わさった音のレベルは両者の位相関係で決まります。808の音程が変わるたびに、ある音では強め合い、ある音では部分的に打ち消し合います。その結果、曲全体で低域が不安定になり、それはどんなマスタリングEQでも直せません。問題は周波数ではなく、衝突だからです。
- 時間か周波数で分ける。キックが鳴る間だけ808を数十ミリ秒ダッキングするか、2つを別の帯域に住み分けさせます。サステインの長いサブの上に、短く中高域寄りのキックを置くアレンジなら、ミックスは自然にまとまります。
- 大事な音で位相関係を確認する。808のラインのうち一つの音だけが前後より明らかに弱いなら、原因はサンプルではなく打ち消し合いです。
- 808を曲のキーに合わせる。四分音ずれた808は、曲の中の倍音を持つあらゆる音とうなりを起こします。その周波数では、うなりは音程のずれではなく、不安定なレベルとして聞こえます。
マスタリングにできるのは、その帯域全体のレベルと一貫性の管理です。低域にマルチバンド・ダイナミクス処理をかければ、音ごとのばらつきが均されます。できないのは、ステレオファイルの中でぶつかっている2つの音源を引き離すことです。低域が本当にぶつかり合っていて、残っているのが書き出したミックスだけなら、両者を別々に処理する唯一の道はパートに分離し直すことです。ただし、それに伴う代償もあります。
リミッターを通してもパンチを残す
パンチ、つまりキックとスネアの打ち込まれ方は、トランジェント、各打の最初の数ミリ秒に宿っています。ラウドネスを上げる処理は、その仕組みからしてトランジェントの敵です。リミッターはまさにピークを削ることで曲を大きくし、そのピークとはドラムのことだからです。ヒップホップのマスターを十分に強く押し込めば、レベルは上がる一方で打撃感は消えます。音は大きいのにパンチがない作品の、典型的な音です。
このトレードオフは、クレストファクター、つまりピークと平均レベルの距離で正直に測れます。十分に残せばドラムはアタックを保ち、すべてをラウドネスに使えば、曲は平らで大きいだけの面になります。どこで線を引くかは素材についての判断ですが、それは耳で確かめながら下せる判断です。大きいほうが良く聞こえてしまわないよう、マスターと元の音源を音量を揃えて比べ、スネアの立ち上がりを聴いてください。音量を揃えずに比べれば、品質とはまったく関係のない理由で、毎回大きいほうが勝ちます。
ゲインリダクションはどこで起きるべきか
どの打音が捕まっているかを見てください。曲全体に均等に働いているリミッターは、自分の仕事をしています。キックが鳴るたびに6〜8 dBも削っているリミッターは、バランスの問題を直すよう求められていて、キックを消すことでそれを果たそうとします。別のリミッターに手を伸ばすのではなく、戻ってキックを下げるべきだというサインです。
サンプリングの作品は荷物を抱えてやってくる
サンプリングしたループは、素材そのままではありません。すでにミックスされ、コンプレッションとEQがかけられ、おそらくマスタリングもされ、アナログレコードから取り込まれている可能性も十分あります。そのため、独自のノイズフロア、独自のリミッティング、独自の音色の判断を抱えたままやってきます。それは、別の時代に、別の問題を解こうとしていた誰かが下した判断です。
- サーフェスノイズ(針音)やヒスノイズは、アナログレコードやテープの音源に由来し、曲全体の下に流れ続けます。リミッターは、ほかのすべてと一緒にそれも持ち上げます。アレンジに組み込む前にサンプルの段階で処理するほうが、完成したステレオミックスで減らそうとするより、ずっとダメージが少なくて済みます。
- すでにリミッティングされた素材には、差し出せるヘッドルームが残っていません。1974年にかけられたリミッターの上に、自分のリミッターを重ねること。それこそが、サンプリング主体の作品を硬くギスギスした音にする二重処理です。
- サンプル自体の低域は、自分で加えたドラムとぶつかり、たいていひどい結果になります。ループに強くハイパスをかけ、最低域は自分のキックと808に任せるのが定番の答えです。定番なのは、それがうまくいくからです。
- モノラル時代の音源は、本当にモノラルです。それを人工的に広げると、低域の節で説明したモノラル化の問題がそのまま起こります。
ここに書いたことは、権利についての見解ではなく、エンジニアリングの話です。そもそもそのサンプルを使う権利があるかどうかは別の問題です。そして、作品から何かを分離して取り出しても、取り出したものに権利が生まれることはありません。
上に乗るボーカル
ヒップホップのミックスは、ほかのほとんどどのジャンルよりもボーカルを前に出します。つまり、マスターでの音色の処理は、まずボーカルに当たります。インストなら引き立つような幅広いプレゼンスのブーストも、前に出たボーカルを耳に痛い音へ押しやります。ミックスでは許容範囲だった歯擦音も、マスターで曲全体が持ち上げられると、聴き疲れする音になります。マスタリング段階の道具は、もともと大まかな処理のためのものです。ボーカル自体がおかしいなら、それはボーカルEQのやり方で扱う、ミックスでの判断です。それでもマスターは、ボーカルを基準にして判断すべきです。リスナーが追いかけているのはボーカルだからです。
重ねたアドリブやダブルも、このジャンルのボーカルの特徴で、出てくるたびに同じ狭い帯域にエネルギーを集中させます。ヴァースでは抑えが効いて聞こえるマスターが、4層のボーカルが重なった瞬間に耳に痛くなることがあります。何かを設定する前に、まず最も大きいセクションを聴くべき十分な理由です。
ノーマライゼーション後の「大きい」とは
ヒップホップの音圧文化はストリーミングのノーマライゼーションより古く、ノーマライゼーションは、そのうちマスタリングで行われていた部分を静かに終わらせました。主要な配信サービスはどれも、音圧の高いマスターを自分たちの再生目標値まで下げます。上乗せしたラウドネスは入口で取り除かれ、残るのは、そのために払った代償だけです。トランジェント、ダイナミクス、そしてパンチ。目標値と仕組みはストリーミングのラウドネス目標値で解説しています。かいつまんで言うと、ラウドネスの比較に勝つために潰したマスターは、ノーマライゼーションがオンの場所では何も勝ち取れません。
低音の重いジャンルで厳密に守るべき数値は、トゥルーピークです。密度の高い低域は非可逆エンコーダーに大きな負荷をかけ、DAWのメーターでは問題なしと出たインターサンプルピークも、配信サービスのエンコードでクリップすることがあります。測定してください。無料のLUFS・トゥルーピークメーターは、配信サービスと同じ規格でトゥルーピークを読み取ります。そして、上限より下に保ってください。低域が単にピークが高いだけでなく、すでに歪んでいるなら、クリッピング・ノイズ検出がそう教えてくれます。クリーンな808を損傷として検出しないように作られています。
実際によく聞かれる質問
ヒップホップの曲は何LUFSにすべきですか?
正しく聞こえるようになったときの測定値のままで構いません。このジャンルの作品はストリーミングの目標値より大きくなることが多いですが、どれも同じ位置まで下げられます。厳密に守るべきなのは、統合ラウドネスではなくトゥルーピークです。目標値が目指す場所ではなく単なる読み取り値である理由は、Spotify向けのLUFSで詳しく説明しています。
スマートフォンで808が消えてしまうのはなぜですか?
スマートフォンでは808の基音を再生できず、しかも基音より上の倍音成分が少なすぎて、耳が音程を再構成できないからです。ふつうの対処は低域へのサチュレーションで、それはマスターではなくミックスで行うものです。
808はモノラルにすべきですか?
約100 Hz以下なら、ほぼすべての場合で、はい。どのみち耳はその周波数の方向を聞き分けられません。そして、クラブのシステムやスマートフォンのスピーカーで崩れるのは、左右に広がったサブのほうです。
自分のマスターが市販の曲の隣で小さく聞こえるのはなぜですか?
ノーマライゼーション後に小さくなっているのではなく、インパクトが弱いのです。音量を揃えたときに大きく感じさせるのは、統合ラウドネスではなく、クレストファクターと低域の重みです。同じ測定値なのに市販のリファレンスのほうが大きく感じられるなら、そちらのほうがトランジェントが多く残っています。それはレベルではなく、リミッティングの判断の問題です。
エンジンにトラップ用のプリセットはありますか?
いいえ。その理由は次の節で説明します。
エンジンの取り組み方
Euphonaのマスタリングには、ヒップホップ用のプリセットはありません。プリセットとは、その曲についてまだ問われてもいない問いへの、決まりきった答えだからです。エンジンはまずミックスを解析します。低域が実際にどこにあるか、クレストファクターはどれくらいか、スペクトルがその素材の参照カーブと比べてどうか。そしてその解析から、チェーンを導き出します。行う処理はこのページで説明したものと同じで、ジャンルのラベルごとではなく曲ごとに選ばれます。その一つひとつが処理前後の測定値とともにジョブのレポートに記載され、音量ではなくパンチで判断できるよう、音量を揃えて比べられます。
続けて読む